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宝円寺について
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沿革


護国山宝円寺は、加賀能登越中あわせて百二万余石(支藩とも百二十万石)の大藩、金沢藩主前田家代々の菩提寺です。遠く天正のころ、藩祖前田利家公の建立になるこの寺院は、藩政時代、領内曹洞宗全寺院の触頭とされた名刹であります。開山の大透圭除禅師は、諸獄山総持寺御開山瑩山禅師から拾世にあたり、前田利家公より厚い信任を得ていました。

はじめ、越前府中(現福井県越前市)に在城のころ、高瀬村にあった宝円寺の大透和尚に帰依し、天正9年、前田利家公が能登一国を領して七尾小丸山城主になると、同和尚を迎えて七尾宝円寺を創建(のち長齢寺と改称)、さらに同11年に金沢城主になると、金沢に招いて今の兼六園の地に、石川門と相対して宝円寺を創建されました。

その後37年のち、第二世象山和尚のとき、小立野の現在地に11,600坪の地を賜り移築されました。 当時、表門は現在の墓所裏坂口にあり、寛文9年、五代藩主前田綱紀公が仏閣僧坊を建て替えられて、山門を馬坂上に建立。山号を護国山とし、北陸の日光と称されたほど絢爛豪華な大伽藍が完成しました。 しかし、宝暦9年と明治元年、2度の火災にあい、再建されて現在に至っています。 うっそうとした墓所や、数多い仏像等に往時の面影の一端をうかがうことが出来ます。