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宝円寺について
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仁王尊像(前田利家公寄進)


『ほくりく昭和モノがたり28 宝円寺金剛力士像 昭和8年』
(大衆文化研究家 本谷文雄)より

今回のモノは、金沢市宝町の宝円寺に安置される仏像です。
前田利家創建の宝円寺はかつて兼六園内にあり、元和六年(1620)、前田利常の時代に現在地に移り前田家の菩提寺となりました。しかし、宝暦九年(1759)と明治元年(1868)の大火で全山を焼失し、往時の面影は失われました。


仁王像


仁王像口を閉じた吽形の金剛力士像は向かって左側に安置され、背面の裳の部分には「寄附功徳主浄心無外居士林屋新兵衛 林屋外子」「宝圓時三拾九世 松雲雪巌代奉安之高岡市佛師本保喜作謹彫」の墨 書銘があります。この銘文によって、額に書かれたとおり作者が本保喜作と確認できますが、さらに彩色前の像と本保喜作と思われる人物が映写った古写真が残っています。その台紙には「昭和五年三月二十五日寫 御丈壱丈二尺新調中之仁王尊」と書かれています。元の吽形は焼失したため、新たに阿形の作風に合わせて、高岡の佛師である本保喜作が彫ったものです。本保喜作は明治二十年(1887)に生まれ、本名善次郎で叔父喜作の養子となって二代目喜作を襲名し、昭和二十三年(1948)に亡くなりました。


仁王像 なお、本保一族は高岡市の源平板屋町と定塚町に工房を持ち、幕末から明治時代後期にかけて、さかんに地元の彫物の製作を手掛けました。 さらに驚くことに、焼け残った阿形の金剛力士像は、木造寄木造で鎌倉時代十三世紀の作と推定されます。額に書かれた「佛師運慶の末葉の調製」は決して荒唐無稽の話ではありません。 ここに金剛力士像(通称:仁王像)が安置されています。扁額には、「天正十一年当時建立の時、利家公の寄進で佛師運慶の末葉の調製という。(中略)明治元年火災の時、一躰は焼失、一躰まさに火に包まれんとした時、小立野の力士亀坂の源八が抱え出して助かった。焼けた一躰は、昭和八年高岡の佛師本保喜作の調製」と書かれています。力士とはいえ、巨像を運び出したとは、にわかに信じがたい話ですが、’’火事場の馬鹿力’’が出たとすれば納得できます。

像高1丈2尺(454センチ)